2012年4月17日

アイデア _MG_2766.jpg


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困ったことに時間がない。

シンジです。


日常の仕事では、
ルーチンな仕事の合間に、
アイデアを求められることが多くなってきました。

当然「仕事」の話ですので、
それは「ビジネスモデル」のアイデア。ということになるのでしょうが、
いかんせんその類のお話に疎いボクなのです。
自分の財布の中ですら管理は不行なのです。
500円玉が二枚入っていることもざらである。
なぜか財布にドングリが入っていることもあるくらいである。

他人のお財布の想像なんてできないし、
そもそもしたくもない。
でもまぁ、そこが労働の労働たる所以でして、
その労働のおかげで毎日コーヒーが飲めているのである。

毎度、適当に自分の興味のある話題を絞り出して、
「・・・これで、いかがでしょうかしら?」的な発言をし、
社長のお伺いをたてるのである。


話は少し変わり、
ボクが車の上での切磋琢磨から自ら転げ落ちて、
車輪の下にはさまってしまった理由も、
「アイデア」でした。

アイデアというものは、
自動車を作り、飛行機を作りもするが、
それ自体がとてつもない中毒性のようなものを持っています。
アイデアは、命題にもならず、
「他者の評価」という中身がなければ一人では直立できない袋のようなもので、
論理みたいにふるまって、宗教みたいに強力です。

青天の霹靂のようにアイデアがピカピカと光り、
気づけばボクはコロンと車から落ちていた。


ビジネス本、などを社長が持ってきては適当なときに読まされたりもするのですが、
大概において何一つ興味の持てないような内容に感じます。

本といえば小説である。という読書経験しか併せ持たないボクには、
「仕事の本」というものは、
あまりに応用的で実用的、かつ極めて著者の経験的なものなので、
なかなかすんなりと頭に入ってこない。

しかし時にはなかなか面白く感じるものもあります。

最近「ビジネスモデルジェネレーション」という本を読んだ(読まされた)。

内容は典型的なビジネス本でありながら、
なんともシリコンバレーな空気漂う内容でありました。
「アイデア」から「チームの作り方」「リソースの把握」「流通のあり方」とか、
日本の会社では実践に不向きではないかしら?
と思われるような内容がつらつらと書かれていた。

そこで、「最初のアイデアにとらわれすぎない」という話が登場した。
みな悩んでいることは同じなわけです。


アイデアの話に戻ります。

自らのアイデアに身震いするような経験、
誰しもが持っていると思います。

過去にも何度か経験したことがある。
制作物の全体像がビシッと目前に幻覚的に表れたとき、
もしくは受験時代に未知問題の解法の道筋が見えたとき。
子供のころに友人と遊んでいるときなどにも頻繁に起こったりしたはずです。

アイデアというものは、人を生かしも殺しもするけれど、
それはあくまで言葉遊びです。

そもそも「アイデア」には「ある程度の独自性」が必要だと思いますが、
その「ある程度の独自性」というものも、
さすがに四半世紀も生きると、あくまで「ある程度」であって、
真に独自なものは、結局のところナンセンスなのだということも知っています。

結果を含んでの意味なのだ。


仕事で「アイデアを出してくれ」といわれるとき、
自らの能力にセーブをかけていることに気づき、
同僚に申し訳なく思うことが多々あります。
ようするに真剣ではないのです。
当然、真剣な人間からはボクより鋭い意見が発せられる。

脳みそは消費財じゃない。
でも歳と共に処理能力は落ちる。

求められている類のアイデアを出し惜しみし、
結局一番大事なアイデアに、
ほかのアイデアをつなぎ合わせようとしている。


自らの脳みそがこしらえたアイデアが眼前を通過しそうになって、
必至につかもうとして車から落下したわけですが、
握っているものが「本物」であるのかを日々悩んでいる。
それも言葉遊びです。

結果としてあるのは、
アイデアをただ不安に握っているけれども、
気づけばこのアイデアに精神的に依存して、
なければ生きてはいけなくなっている。
そんな自分です。

総括するのなら、
信者がたった一人だけの宗教だ。

袋をつむいだら、
あと中身が満ちるかどうかがアイデアの価値である。
まだ他人に袋を見せてすらいないボクのアイデアだけど、
もはや客観的な把握が難しく思えてきたのは、
おそらく自らその袋の中に入って紡いでいかないといけないような、
分不相応で持て余すサイズの袋だったからだと思う。
なんとも馬鹿な話である。

他人を入れて満たすには無駄に大きいので、
空に飛ばして気球にしてしまおうかと、
真剣に悩んでしまうような価値しか、いまはないのだと思う。

ボクが袋の中で悩みながらチマチマと布を縫っているのを眺めながら、
出来上がったらその袋の中に入ってみたいと言って、
たった一人、外で順番待ちをしている人間が近くにいることが、
なんとも心強く、かつその存在に少しビビッてしまっている自分がいる。


明日も元気!
シンジでした。
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2012年4月11日

トラウマ _MG_5372.JPG
「noname」

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メトロポリタンミュージアム。
といえば、実際の博物館よりも先に、
NHKのみんなの歌を思い出します。
ボクの世代の人なら似たような感覚をもつと思います。

「メトロポリタンミュージアム」という児童曲があり、
みんなの歌で、定期的にながれていました。
ただ、その曲に合わせて流れる人形芝居が、
ボクは怖かった。

いまでは感じ方は違うけれど、
夜の博物館を子供が散策する、という内容が、
なんとも不気味に感じたのです。
トラウマといってもいい。

ただ、気づけば26歳になっていて、
そのことを思い出すときに感じるものは、
「不気味」というものではなく、
痛痒いような気持ちです。
メランコリックでありながらハッとするくらい鋭い感覚です。
鴨川で手に持っているメロンパンを飛来したトンビにさらわれたときくらい、
僕にとって鮮烈で急激なのです。


二十歳を超えたあたりから、
とある物事、事象に出会ったときに、
「それがどういうことなのか」いうことと同じくらい、
「そのとき自分がどう感じるか」という総括が、
大事なのではないかしらと、思ってきました。

そういうときによく思い出すものが、
上記「メトロポリタンミュージアム」です。

恐ろしくてたまらなかったものが、
気づけば大切なものになってしまうような感覚です。


早熟な青春時代を過ごしたボクが、
「おいしい」「うれしい」それだけでもいいのだけれど、
そのときに一緒に誰がいて、
その場所はどういう匂いがして、
すべての総括として、「おいしい」「うれしい」を思いついている。
そのことを、少しずつでも積み上げていくだけで、
幸せなのだと気づいたのは、
「早熟」とは到底言い難いけれども、
ここ数年のことなのです。

そのことに気づいてから、
気持ち悪いくらい、
いろんなものを大好きになってしまっているのです。


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